不平不満なんて、探せばいくらでも見付かるものだと思う。
アンテナを「自分にないもの」に向ければいいだけなのだから。
たくさんのものを両手いっぱいに抱えているのに
「あれがない」「これがない」
と言っている人のなんと多いことか。
そして、自分もまた、そうなるのは実に簡単なのだ。
「満たされる」ってなんだろう?
お金がたくさんある、時間も自由に使える、誰かに必要とされている、仕事がうまく行っている、相思相愛の人がいる・・・・
色々な状態のことを、人それぞれの求めるものに照らし合わせて「満たされる」というのだろうけれど。
私は心にある願いごと(欲求)が、形あるものになって見えたときが
一番「満たされた」ように思えるのではないか、と思う。
それは現実であり、手にとれるものであり
そして反面、脆く幻影ともなりうるようにも思える。
底なし沼に落とし入れるように、「まだまだ」「もっともっと」と思えば
いつまでたっても満たされることがないのが人の心。
だけど、それがあるから、人は何かを目指して歩こうとするのではないか。
・・・難しく考えなくていいのではないか?
ふと、昨日そんなことを思った。
手を伸ばせば、そこに触れる温かな体温がある。
どこぞやの三ツ星ではないけれど、同じ皿の料理を一緒につつけることや
今日あった、どうでもいいようなことを話せること、
何の確信もないのに
自分の未来を信じてくれる、嬉しい言葉をポツリと贈ってくれる。
それでも、足りないと思えば足りない。
でも、満たされていると感じられたなら、それは至福の時間となって記憶される。
満たされる、ということは自分次第だと、私は思う。
どんな現状でも嘆こうと思えば、嘆く要因は出てくる。
どんな現状でも満たされていると感じられれば、幸せに微笑む自分に気付く。
ありがとう。
こんなにも私の心を満たしてくれるものたち。
そして、それを感じられる心を培ってくれたすべてのものへ。